新たなテニス環境開発  Development of new tennis environment

     
  参加する人達すべてを同じ目線の高さで迎え、障害の違いを超えたテニス交流を実現した 日本ハンディキャップテニス大会

先に開催した国内初の車椅子テニス競技大会に続き、車椅子使用の有無に限定しないすべての障害内容を対象とする 国内外初の大会企画です。

1988年の第1回から1994年まで継続。 様々な身体障害のある人達に競技参加の門戸を開いた 障害の有無にこだわらない大会ですが この大会内容は 身障者スポーツとしてではなく、市民スポーツのひとつとして企画設計されています。



    

参加者を全国対象にして、新しいテニス競技内容の大会を企画運営する負担の大きさは決して少なくありません。
この大会は 多くのボランティアが長い期間にわたり 無償・無給で関わって具体化したもので 更に 8年間にわたり 継続した事業です。


本来、国内テニスの振興に取り組む立場にある日本テニス協会が存在しています。 しかし 残念ながら 大会企画の取り組みに対して 後援名義のみの協力に留まり、NPO団体に代わって 資金面や人材・時間のリスクを担っていこうする協会関係者の動きは ありませんでした。

新しいテニス大会を企画したNPO団体の年間運営経費は、人件費0にしながらも 毎年 400万円以上を必要としました。
大会開催の年には 企業や財団などの支援、助成がありましたが、運営実務に必要とする資金は毎回不足し、こうした団体経費はすべてNPO関係者達の投入(寄付)した資金で補う状況での事業活動スタイルは 30数年間続きました。


この大会は 1994年で 特別イベント企画を含む7年間で 開催を打ち切りとしました。
資金づくりのむずかしさが最大の理由ですが、大会開催を断念したのは 1995年1月17日に発生した阪神淡路大震災の内容です。


当時 NPO活動の柱であるテニス事業を休止して取り組んだのが 新しい事業とする 被災地域支援活動(ENH)です。
この活動をNPO事業の一環とした理由は、事業内容(dev20)に関わって戴いた方々が被災地域に数多く生活されていたことで、その人達の支援に力を尽くしたいと考えたことに始まりました。 活動は 被災各地域へと拡大し 更に その後の地方地域被災地域支援活動へとつながっています。


日本ハンディキャップテニス大会は、杖や車椅子を使用する人達、義手や義足を使用した人達の参加も可能とし、聴力障害や視覚障害の人達も加え、自力では車椅子操作の難しい四肢に機能障害のある人達も参加できる大会です。

競技規定で認められている車椅子移動を補助するボランティアパートナーの協力で、コート内を動き回りながら懸命のプレーを展開しました。
障害が重く、ラケットを動かすだけの人達も パートナーが車椅子の人動エンジンとして活動することで 競技参加を可能にしています。

テニス経験のある人が 移動操作を補助する人動車椅子の採用を認めた競技規定によって 競技参加を楽しむ門戸が大きく開かれました。 

                                          ※参考 
ハンディキャップテニス競技ルール

この大会の特徴のひとつは・・ 様々な技術レベルの人達に適した競技クラスが数多く設定されていることです。
強いプレイヤーも、競技経験少ない人達も楽しめる大会です。

各競技クラスの順位賞として用意されたメダルの数は多く、重さは、合計10kg以上になりました。

大会では障害レベルの高い少女が、日頃の練習を積み重ねて競技参加し 同じようなレベルの人達と競い合ってメダルを獲得しました。

大会後の帰途、同行のボランティアに 「メダルを手にすることなど想像もしていなかったので嬉しい」 と受賞の喜びに涙していたことを 彼女の周囲の人達が後日伝えてきました。

こうした喜びは、大会を様々な立場で準備に取り組み、大会運営に尽力された多くの人達の喜びにもつながるものでした。


当日、大会記録の撮影や競技審判と共に聴力障害選手の試合の手話通訳者、また 多くの種目を16面のコートで順調に進めるための競技本部でのメダリストに贈る賞状づくりなど・・ 大会は多くの人達に支えられました。







この大会の競技規定では、機能障害のある人達に対しても、身障者ではなく、一般的なテニス愛好者として迎い入れることを基本とし、身障者手帳の有無にも制約されずに参加出来る大会です。 更に 障害内容の異なる人達の対戦も 実現させています。


ハンディキャップテニスの名称は身障者テニスを表すものと考える人達には驚く内容ですが、新しい競技スタイルは いくつもの感動を生み出しました。
この大会企画は 国内外初めての内容ですが、発想豊かに障害内容の違いや障害の有無を超えたスポーツ競技が どこでも実現することを願っています。


この大会には、国内初の車椅子テニス競技大会を開催した当時の車椅子テニス選手の大半が参加しておりません。
すべての障害内容とする本大会は 車椅子の人が 車椅子を使用しない人と 対戦することもあるから 不利になるとして、参加を阻んだ人物がおりました。

車椅子テニス大会を地方で企画した人物の心無い言動により、車椅子プレイヤーが有明テニスの森公園の会場に姿を見せたのは 僅かな数になりました。
国内3番目の企画になる 関西での車椅子テニス大会を 独自の名声づくりに動いたのが、当時の 日本テニス協会関係者というのは、心寂しい事実です。

この大会には、北海道から岡山までの幅広い地域から参加した200余名の選手、当日の会場内では100名以上のボランティアが大会運営を支えて戴き、大会準備にも 延べ百数十名の人達が関わった 国内唯一の全国大会です。

立位の人達と車椅子使用の人達との新しい対戦スタイルも実現させた大会は、車椅子を競技に使用する、使用しないに関わらず、それぞれの人達に適した内容と特徴を活かしたプレーで ポイントを競い合う楽しさは、選手に限らず、観客やボランティアの方々も 感動しつつ見守りました。

競技参加した人達は、毎年の常連メンバーも、初参加の人達も加わり、障害のある人達の隠れた才能とその明るい性格が 多くの人達に認識された大会企画でした。 この大会内容は、その後の 千葉や横浜、静岡など地域大会企画の開催に 影響を与えています。

   


参加した選手には様々な機能障害がありました。 そのひとりひとりには 障害のない人達には分からない工夫の積み重ねでテニスを楽しんできた人達です。
ハンディキャップテニス競技規定には、従来のテニス規則にはない 競技方法も認めたことで、素晴らしいプレーを見せる選手が多々おりました。

中央画像の青年はラケットを振る右腕がなく、左手にも障害がありましたが、右の肩に太いゴムバンドでラケットを固定し、肩の振りでラケットを操作し、フォア、バックのスィングをします。 サービスは コート上に置いたボールを両足で挟んでボールを背中の上方向に上げ 鋭いサーブを行うスタイルは 彼自身が工夫した方法でした。
このサービスは 障害のある人達は コート上に 1バウンドしたボールを打球する方法を認める ハンディキャップテニス競技ルールを 適用しています。

右側の画像は 片足のみしか動かせない小児麻痺の少女が プロコーチを移動補助のパートナーとして 対戦相手の打球を 懸命に打ち返していました。
既存のテニスでは考えられない競技スタイルですが、パートナーの女性プロコーチは、選手が打ち易い位置と角度に車椅子を移動させる力と技術が必要です。

競技規定では、この人動エンジンとなるパートナーは競技途中で交代が認められます。 エンジン役は、長いゲームで 選手以上にスタミナが必要なためです。

こうした人達の競技機会と大会企画を育み続けたのは、国内テニス協会が 同種の大会を各地で普及させていくことを願うものでした。
しかし、大会終了後の30年余を経過しても・・ まだ 国内テニス界を統括すると自認するテニス協会の取り組む姿は 見られません。



 
開催年 イベント名称
1988  第1回 日本ハンディキャップテニス大会
1989  第2回 日本ハンディキャップテニス大会
1990  第3回 日本ハンディキャップテニス大会
1991  ハンディキャップテニスクリニック
    & エキシビション
1992  '92 日本ハンディキャップテニス大会
1993  '93 日本ハンディキャップテニス大会
1994  '94 日本ハンディキャップテニス大会
この大会プログラムは、当初の車椅子テニス競技大会プログラムと共に、国立国会図書館に納本(寄贈)しています
  


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