新たなテニス環境開発の歩み  The step that created new tennis environment
        
     
   テニス環境づくりに関係した いろいろな人達や施設などが 被災地域支援の力に
  
1995年(平成7年)1月17日午前5時46分・・
兵庫県南部地域に発生した大地震は6400名余りの尊い命を奪いました。 ここに当時の記録とレポートの一部を公開するに当りまして、改めて災害に遭った方々のご冥福をお祈り申し上げます。


国内ばかりでなく、世界的にも地震や噴火、洪水などによる大規模災害が多発しています近年、自然災害に遭遇したとき、人の命と健康を支えられるのは、周辺にいる人達のやさしさと積極的な行動です。

災害の跡も生々しい神戸や淡路、周辺市区の中で被災した人達自身の感動的なボランティア精神に接しましたが、被災した人達の気持ちと健康を必死にサポートされていたボランティアや消防、警察、地域行政など幅広い方面の数多くの人達に出会うことができ、その行動する姿が胸を打ちました。


ENH活動として被災の現地に入ったのが震災発生から10日目のことでした。
倒壊した建物の下にいた人達の命を救出することは出来なかったのですが、大震災の災害に遭って亡くなられた人達が最後の一瞬まで生きようとされていた時の気持ちを既に10数年を経過した今でも思いしのぶことがあります。


当初の3ケ月近く、兵庫県下のほぼ全域を訪ね、避難した人達の健康を少しでも守りたいと思いつつ心のケアを主とした活動内容が表記のエンカレッジング・ネットワーク・ハートと名称した災害被災地域支援の市民活動でしたが、しかし、当時を振り返りますと、現地での活動範囲と内容は毎回、活動事務局や現地活動拠点を出発する前に考えたことの数分の一程度の規模に留まったことを記憶しています。


現在もこのときの災害による後遺症や生活の不安に苦悩している人達がいることと思いますが、今はその人達の心を思うだけで具体的な支援はできておりません。 神戸などの関係方面からは、元気の不足する人達に工夫や企画を考えてサポートする人達が更に増えていることの情報を戴いております。 きっと、信頼と支えあいの中で元気を回復した人達のさわやかな笑顔が生まれていることと思います。


神戸に限らず、被災を経験をした各地の人達の活力が早くに甦ることを願い、また、温かな光の届かないところにいる人達に対し、健康と平安の日々を楽しめる地域環境づくりへの施策が機会均等に進められることを願っています。

当時、支援プログラムの中には緊急支援物資と共に、オプションとして子供達のために贈るテニス用具類も加えました。 この用具類を使用して、避難所や仮設住宅地域の中でスポンジテニスの紹介と練習指導も進めました。 テニスプログラムは子供達ばかりでなく、周辺の大人や支援活動のボランティアの方々にも喜んで戴き、長く続く避難生活や支援活動の疲れやストレスをひとときでも忘れる時間にしていただけたのかも知れません。

この阪神淡路大震災は・・
数多くの尊い命を奪い去った自然災害の恐ろしさは被災した地域や多くの人達の心に深い傷跡として残りました。 現在、神戸とその周辺地域の外観は美しさを取り戻したと思いますが、未だに心に深い悲しみを秘めている人達も数多いことと推察しています。 それぞれに新たな希望とゆめを見つけ、悲しい思い出と置き換えていかれることを願っています。

ENHの活動のひとつに・・被災した人達の心配事や不安な気持ちを同じ目線で聞き取ることによる心のケアを加えました。 この活動のボランティアのレポートの中に・・ 高齢の人が地震に襲われたときのことを話すのを黙って聞いてあげただけなのに、涙を流して 「ありがとう」 と言われた。 小さな活動が少しでも役立ったことを被災地から遠く離れた地域から参加された人達が感激的に話していただきました。
支援方法の技術も体力もないのに、いても立ってもいられなくて、地方の自宅からボランティアとして参加してきたものの、何もできないのではと不安だったことがこのときに被災した人から感謝の言葉を受けたことで逆に励まされたように感じたことを活動の終了後に報告してこられた人もおりました。 精神科医でもカウンセラーでもないボランティアの人達の行動が、誰にも話をする機会の少なかった人達の心と向き合い、少しでも安らぐことに役立った一例かと思います。

毎日のニュースを見ながら被災地に行くことが出来ないストレスと戦いながら、交通費と緊急支援物資の資金づくりに行動・・ 現地で必要とされる活動、緊急支援として役立つ物資はどのようなものか・・に考えを進めました。 少しでも早くに被災地に行きたいとの思いはありましたが、力不足から資金づくりにはかなりの時間を要してしまいました。
当時、被災地で最も必要なものは、食料や衣類などであることをニュース情報からも分かっていましたが、集めることの出来た寄付を含む資金で準備できる品目も数も限られます。 少しでも現地で効果的に役立つものを選ばなければなりません。 こうした内容は毎週の被災地訪問に際しても同様でした。

この選択とは別に考えたのは、災害で家族を失った人達や大きな傷害を受けた人達の多い現地では、高齢者や病弱の人達を抱えた家族にとって、車椅子が近くにあったら、子供達や高齢の人達だけの小さな力でも、家族を安全な場所や必要な場所に移動することが容易になると考え、車椅子の確保に動きました。

新品は費用的にむずかしく、もし、数万単位の車椅子を購入する資金があれば、現地で必要とされている日常の生活用品などの費用に充てることが出来ます。
そこで、各地の身体障害者療護施設などをテニス紹介で訪ねた折に、一定の償却期間を過ぎた古い車椅子は、新しいタイプに入れ替えるときには廃棄されることを聞いたことを思い出し、被災地で1〜2年だけでも使用できれば大いに役立つと考え、そうした中古車椅子の提供を求めて各地域の関係施設に依頼しました。
車椅子テニス大会やハンディキャップテニス大会に参加した選手や関係者などとも連絡を進め、多くの協力によって30台余の車椅子が集まりました。


集まった車椅子は他の支援物資と合わせて、車やバス、電車で被災した各地域にお届けしました。
この車椅子は、簡単な錆落としなどの整備をして、安全性を確かめた上、必要とされた方々に寄贈しました。

避難所から仮設住宅に多くの人達が移りはじめてからは、避難所近くで活動していた他の支援団体に場所を提供して戴き、車椅子の手入れを十分に進めてから届ける方法に切替えました。

この支援活動にボランティア参加された人達の地域や職業などは幅広く、教会の牧師さんも個人的な立場で、熱心に遠くから継続して被災地域の方々の支援に加わって戴きました。



一方、支援のできる物資は少ないものの、他に必要とされる活動が多々あることを思い、自分達がこの大きな災害で被災した立場に置かれたら、最も心配することは何か・・ と考えて、支援活動のひとつに加えた内容は、被災した人達が同じ地域の中にいた親しい人達との安否確認をしたい、自分の無事を友人や知人などに知らせたいと思う人達が数多くおられるのではないのか・・ と思いました。

中でも、動く力の少ない病弱の人達や高齢者、また、視力や聴力を失っている人達は、周囲の人達の協力がなければ、他の人達との連絡もむずかしく、必要とする情報も得られ難いのではないかと心配しました。

この震災前に各地でいろいろな人達との出会いと交流機会を経験していたことが、少しでも支え合う絆を生み出す行動につながりました。
自然災害の発生は予測が困難です。 そのため、被災したり、事故に遭遇した人達は周囲に支えられる立場になります。 しかし、何かの機会に、他の人達を支える立場で活動されるかもしれません。 被災地支援は他の地域の人達が支えるのではなく、人として支え合う行動のひとつです。

避難所で生活する人達が、離れ離れになった家族や友人、知人との安否連絡に使用できるようにと、便箋、封筒、切手、ハガキ、筆記用具のセットを支援物資のひとつに加えました。 便箋やボールペンは、聴力障害の人達との筆談にも役立つことを願ったものです。

聴力障害の人達を見つけることは困難ですが、避難所で生活をしている人達に、その周囲にいろいろな案内や説明の聞き取りがむずかしい人達がいた場合、筆談の用具として活用されることをお願いしました。
育館や教室に避難している子供達が、被災地域では遊ぶ場所を失ったことを考え、日頃のストレスを発散する方法のひとつにスポンジテニス用具の配布を進めました。 多くの人達が避難生活を続ける場所で、ボールが他の人達に当っても危険の少ないことで選んだ遊び道具のひとつです。

このスポンジテニスは、長く避難所で支援活動を継続していたボランティアの人達のストレス解消にも役立ちました。 テニス経験者なのかもしれませんが、久しぶりのテニスプレーが出来て、元気が出てきたと喜ばれたのは幸いでした。
この他、幼い子供達向きのイタズラ書きノートやクレヨン、折り紙も届けました

活動の中で、心配していた視力を失った人達のケアについては、現地のライトハウスなどの関係方面が中心となり、支援や介助が進んだとのことでした。 
しかし、聴力障害の人達は外観からは音声の聞こえないことに周囲の人達が気づき難いために、避難所では、誰でも必要としていたいろいろな情報などを得ることが遅れ、支援物資の入手にも困難を極めた・・ との報告を知人の聴覚障害の方から聞きました。

身体の一部を失っている人達などは外見からも障害があると判断できますが、内部障害の人達や聴力障害の人達は、災害発生時の救援や支援を受け難い状況に置かれます。 こうした人達の緊急時の支援方法を国内すべての地域で工夫し、多くの人達の理解が求められるように、行政、民間の体制確立が必要です。

なお、災害や事故発生の際の誘導や危険を知らせる手話を少しでも広く普及させることは大切ですが、問題となる点があります。
手話の世界には、地域の違いがあって、関東地方の手話が関西では聴力障害の人達の70%程度しか理解されなかったことを後日の情報として聞きました。
外国の手話との違いがあることは多少止むおえないことですが、国内では、手話通訳者の関係団体などを中心にして国内統一の手話を工夫すべきです。 

阪神淡路大震災では関東方面からも数多くの手話通訳の出来る人達が被災地域で活動しましたが、温かな支援活動のひとつとした手話通訳の役割りが十分に果たせなかったのでは・・と心配しました。 しかし、地域性で相手に会話の内容が通じない場合は、手話に代わる唇の動きを読み取る口語や空書、筆談も使用されたとのことでした。

被災地域には、消防、警察関係の支援が国内各地から数多くの集まり、様々な分野の専門知識と日頃培った技術、更に、多くの資機材が投入されました。

医療機関や様々な方面に加わって自衛隊からも多くの隊員と機材が支援のために被災地に入り、その活動のひとつとして特設された入浴施設は被災した人達の身体と心を温めました。
  
当時、ENHの活動内容は、病弱者や高齢者の移動手段の工夫や、視力や聴力を失っている人達、病弱の人達などを中心とした安否連絡方法への協力、また、親しい人を失った人達や子供達が、不安やショックを原因とするストレスの軽減する必要性などを考えながら活動しました。 しかし、最初の現地入りに始まり、繰り返し訪ねた被災各地の状況は予想以上に大変厳しい状況でした。 

1ヶ月、2ヶ月と過ぎていく被災各地域では、最小限の健康を維持する食事を受けながらも、1月、2月の厳しい寒さに耐えながら、高齢の人達が1,2枚のダンボールを敷いた上で毛布1枚の生活をしている姿はあまりにも過酷でした。 その様子を目にしながら、力及ばないことに空しさを感じながら、週に2,3日の現地活動を神奈川を往復しながら、毎回、各地から参加されたボランティアの人達と共に活動が続きました。

全壊していない学校施設はすべて避難場所として寒さから被災した人達を守りました。 しかし、多くの人達は、硬い床の上で寝具の少ない状態での睡眠は厳しかったことと思います。

通路に面したところには、行方の分からなく友人、知人を探し求める張り紙が壁いっぱいに貼り出されていました。
ライフラインのひとつ‘水’の供給を絶たれた人達が、1月の厳冬の川で、少ない衣類の洗濯を行なっている懸命な姿がありました。

力不足のボランティアとしては、風邪をひかないようにと祈るだけで、その場所を離れるしか方法はありませんでした。
生活環境が回復するまでに、この後も多くの時間が要した被災地でした。

このNPO活動では、いろいろな人達からの温かな寄付や物品を預り、その方々の気持ちと共に現地に届ける役割を果たせたことは ありがたいことでした。
支援活動は、車椅子の輸送に協力を戴いた方面や現地活動団体との支援ネットワークをつくりたいと考え、連絡を進めた団体、関係者などの協力が得られたことにより、いろいろな内容の取り組みが実現し、同時に当初の計画よりも支援活動を長く継続することができました。
  
ボランティアの募集については、NHKの放送協力をはじめ各種メディアによる報道などで、各地から多くの人達の温かな協力参加を得ることができました。
しかし、この活動本部としての力不足から、すべてのお問い合わせに対して、十分に対応が出来ず、現地活動に実際に参加して戴いたのは、1995年3月末までに60名余、活動日数を掛けた人数は200名余りです。

活動は、当初計画の6ヶ月間を過ぎても支援の必要性を痛感したことにより、1年、更に数年と、現地で活動する日数は次第に減少していきましたがENH活動は続き、この活動期間の延べ参加者は270名でした。
                

支援活動の当初、ボランティア参加の人達に、被災地域で活動内容や方法を説明できる場所を被災地域周辺で確保することは困難でした。
このとき、現地で支援活動を積極的に進めていた外国人を代表とするNGO団体の紹介で、本格的なENH活動を関西地区で立ち上げる環境づくりに結びつく貴重な出会いがありました。 この出会いがなければ、被災地での活動は限られた内容に留まったことと思います。

このときの出会いを生んだきっかけは、最初の被災地域訪問では近くで泊まる場所のないことを考えた上で、現地に向かい、夜には再び夜行バスで帰宅する予定でしたが、鉄道の一部を含めて道路を使用する交通網は大変厳しい状況にあったことから生まれました。

自宅に戻るために利用する三宮駅近くのバス乗り場は激しい渋滞で、バスを待つ人達が数千人以上も並んでいました。
このまま待っていると、帰途の電車やバスの発車時刻には間に合わないと悩んでいたとき、被災状況の調査に同行して戴いたNGOスタッフが、「大阪まで行けば泊るところがある」 と声をかけて戴き、数時間を待って、最寄駅まで行くことの出来た特別ダイヤの路線バスと電車を乗り継ぎ、大阪に向かいました。
紹介されて、その後の活動拠点にも使用させて戴くことになったのは大きな学習塾でしたが、その建物に到着したのは深夜1時前後でした。

遅い時間にもかかわらず、学習熟の代表者が快く迎えて戴いた上に、他のNGO団体も利用しておりました部屋のひとつを提供され、加えて、その後の現地活動拠点としての使用にも理解を賜り、長く提供して戴きましたことは大変ありがたいことでした。



ENH活動につきましては、テニス環境を主体とした関係資料とは別に、三宅島の避難児童や新潟方面の震災関連の事業を含めて大量の資料を保管しておりますので、編集が進み次第、情報公開を図って参りたいと考えております。

 Encouraging Network ‘Heart’ ・・

この名称は、阪神淡路方面の被災地域で活動を進めるために、その活動内容と目的を考えて設けたものです。
スポーツ開発を進めてきたNPO団体がその主とする事業目的とは異なる活動内容という点も考慮し、活動の初期はJHTF事業とは切り離して進めました。

この活動の運営に当り約6ケ月ほどの間、スポーツ関係のNPO事業については80%ほどは休止状態にありましたが、その後、事務局を同じくするNPO活動であり、スポーツ関係会員の一部にも理解が広がって、事務や業務の時間調整などの関係も考え、JHTFの新しい活動事業部としました。

エンカレッジング・ネットワーク・ハートは・・ 「元気づける心をもった人達の輪」 との意味をもたせた和製英語名です。
この活動の創立当時から約2年の間、当時、ボランティア活動募集などでお世話になりました各報道機関のお知らせでは、活動名称、団体名を <ネットワークハート> と略称しておりました。

●事務局ボランティア活動の時間不足から、この当時の活動記録と資料が数百ファイル、いまだに数個のダンボール箱に 納められたままです。
 その内容は今後の防災や支援活動などへの様々な視点、思考の課題を提供できるものと考え、 保管しております。

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