アスリートにも 愛好者にも 気づかれることなく生まれた 新しいテニス環境
スポーツは・・ 人を元気に 輝く機会を 生み出します

日本車椅子テニスの歴史 と その環境開発


2012年・・ ロンドン・パラリンピックの車椅子テニス競技の男子シングルス決勝があり、2008年北京大会の覇者で、大会第2シードの国枝慎吾が、第1シードのステファン・ウデ(フランス)を 6−4、6−2 で破り、パラリンピック連覇を果たしました。

国枝慎吾(くにえだ しんご)選手は、この記録のみでなく、世界メジャー大会のシングルス24勝、ダブルス17勝の男子世界最多記録をもっています。 2007年には、史上初となる車椅子テニス男子シングル スグランドスラム(4大大会制覇)も達成、2009年には 日本選手として 初の車椅子テニスのプロ選手に転向しています。

彼が生まれたのは1984年2月21日・・ 9歳の時、脊髄腫瘍によって下半身麻痺のため車椅子の生活になりましたが、母親の薦めで小学校6年生の時に、吉田記念テニス研修センターで 車椅子テニス練習を 始めています。
高校1年生のときには海外遠征も体験、17歳からは テニスコーチ・丸山弘道氏の指導を受け、本格的に競技に取り組んでいます。
                                       
 (※この国枝慎吾氏の内容は ウィキペディア、他の文献を参考にしています)


1981年の国際障害者年が終わろうとしていた12月に、ボランティア活動団体
※※)が、日本テニス協会と日本プロテニス協会に対して 車椅子テニスの練習・競技環境づくりの具体化を働きかけました。

この働きかけの声に耳を傾けたのは、日本テニス協会事務局長の清水伸一氏と日本プロテニス協会事務局長の川上 岳氏です。
積極的に協力を進めて戴いたのは、日本テニス協会の近岡義一郎氏(※当時、普及委員長)と藤倉五郎氏(※当時、専務理事)です。
その後、長年にわたって協力支援を進めて戴いたのは、日本プロテニス協会の澤田 誠氏(※理事、副理事長など歴任)です。


当時、日本のテニス関係者の大半は、車椅子テニスに関する関心は少なく、各協会などの訪問とテニス経験豊かな方々に対して 理解を求める活動を進めました。
しかし、協会などの反応は・・ < 俊敏に移動する運動能力を必要とするテニス競技の特徴から・・ 車椅子操作しながらの テニスプレーは難しい・・> と考え・・
< そのテニス環境づくりについて提言してきた・・ >  と受け止める関係者が大半でした。 提言は 当時の常識を超えていた内容だったと思います。

こうした当時の状況から、開発の取り組みと普及事業の推進は、テニス経験少ないNPO団体が主体となり、最初の一歩から 大会の企画実現まで進めることとなりました。


車椅子テニスに対する理解の少ない中で、テニスコートに 車椅子を持ち込んで 実際にプレーしたいと考えました。
しかし こうした要望を受け入れてくれる関係方面は 皆無の状況でした。
コート管理者の立場で考えれば、車椅子は コートに車両を 乗り入れることと同じで、拒否は当然だったと思います。

コート損傷の不安解消と車椅子使用者の安全性を確認するため、コート上で車椅子を使用したテストを行いたい・・
この要望に応じて戴いたのは、コート建設の世紀東急工業(株)と車椅子メーカーのロールスチール(株)だけでした。

右写真の車椅子は、日本で最初のコートテストに使用した車椅子です。 当時、有志で資金を出し合って購入、その後、
国内各地で実施した指導者講習等の実技紹介にも 長く活躍してくれた良きパートナーです。





国内の車椅子テニス環境づくりの発想と研究開発の取り組みがスタートしたのは1977年・・ その後、最初の車椅子テニス競技大会を 開催したのは1984年です。
この1984年に誕生した人物が、2008年、2012年の パラリンピックの2大会連続の金メダルを獲得した国枝慎吾氏です。
輝かしい記録を生み出した本人の並々ならぬ努力と才能が生み出した成績に、惜しみない拍手を 贈りたいと思います。

しかし、現在、国内外の車椅子テニス競技世界で活躍しているアスリート達は、既存の車椅子テニス協会が設立されるまでの長い道のりの中に・・
車椅子テニス環境を初めて開発、育んだ多くの人達と 活動を支援協力した様々な企業や団体が存在したことを テニス関係者も 一般の人達にも 知られておりませんでした。


その一方、車椅子テニス競技にマスコミなど多くの関心が高まるに従い、パイオニアのNPO団体の取り組みや存在を否定する言動を行い、NPO活動の排除に動ぐ人達も
生まれ、当時のボランティア活動の関係者や支援協力の各方面の存在までも 消されました。
国内車椅子テニス環境づくりの歴史を曲げようとした心寂しい人達の言動に左右された人達も多く、その人達の誤った対応が、NPO活動の道を厳しいものにしました。

当時 そうした人物を公に指摘しないのか? との疑問の声もありましたが・・ 残念ながら、心寂しい人達は、テニス関係者や身障者スポーツ関係者の中におりました。
しかし、アンフェアな人物が所属する協会や関係施設の中には 数多くの信頼する方々がおり、こうした人達の名誉にも影響することを考えて保留しました。


この車椅子テニスの環境づくりに留まらず、その後、様々な 国内初、国際初となる取り組み内容、事業に取り組んだNPO団体ですが、名声も利益も目的としない活動内容と
その実績を 誇ることのない活動方針の歩み方が、心寂しい人達が生まれる隙間を 生み出すことにつながったのかもしれません。

心寂しい人物が存在したテニス組織や厚生福祉関係施設には 人格的に優れた人達が数多くおりますので、問題の人物を 指摘、公開しませんが、関係記録は残しています。


オリンピックで活躍された国枝慎吾選手と専任コーチの丸山弘道氏は、当時の国内車椅子テニス環境を生み出した 多くの人達の存在や各方面の存在を知りません。
様々な状況が温かな協力支援と無理解や偏見も生み出した日本では初めての車椅子テニス環境づくりは、彼が生まれる7年前の1977年から始まりました。
しかし、この取り組み内容が10数年遅くにスタートしていれば・・ 現在の活躍には 結びつかなかったかもしれません。

国枝選手ばかりではありませんが、下半身の麻痺などで車椅子生活に入った人達の苦労と辛さは、外部からは推測する範囲に留まります。
しかし、そうした生活の中で、彼を支え、励まし続けた母親の薦めで、車椅子テニスの楽しさとふれ合う機会があったことは 幸いだったように思います。

オリンピック大会で見る・・ スポーツ競技は 活躍するための優れた技術や体力が必要ですが・・ 時として ” 運 ” が勝敗の結果を左右することもあります。
 そうした ” 運 ” に恵まれない人達は スポーツ界の中には 数多く存在します。

彼が車椅子テニスと出会った時期・・ 国内に練習・競技の環境が誕生した10数年後であったことが・・ 良き ” 運 ” の一端として 活かされたのであれば幸いです。
 スポーツは・・ 人を 元気にして、生きがいを育み、輝く機会も 生み出します・・ その一例を 彼の活躍する姿に見ることができます。


国内で最初の車椅子テニス競技大会を JHTF(※当時はルプト・プラン連絡協議会の団体名称)の企画で開催したのは1984年です。
この年に誕生した人物が、2008年に続き、2012年のパラリンピック車椅子テニスの金メダルを獲得したことは印象的ですが、国内全域を対象にした車椅子テニス競技大会
(※神奈川県厚木市会場)に続き、その後、福岡や大阪など国内各地で車椅子テニス大会が開催されるようになりました。

 こうしたトップアスリートが育った一方で・・ 日本国内で進められてきた新たなテニス環境づくりは まだ 道半ばです。
 アスリートがメダルを目指す環境とは別に 誰もが楽しめるテニス環境づくり・・ 協会等のテニス関係者の尽力が 必要に思います。


オリンピック、パラリンピックのテニス種目で シングルス競技には金メダルは ひとつしかありません。 しかし そのメダルよりも大切なものがあります。
NPO団体やボランティアが取り組んで実現した新たなテニス環境づくりは メダルを獲得できる数少ない人達のために多くのエネルギーを投入したわけではありません。

テニス競技を統括すると自認する組織が 優れた成績が期待できる限られた人達を対象にテニス事業を進めることはテニスの発展にひとつの役割を果たすものですが 体力や
運動機能に力足りない人達にもテニス参加を楽しめる環境づくりに 積極的な取り組みがないと その存在価値が問われ、新たなテニス組織誕生への期待も生み出します。

国内外には 病気や怪我などによる障害で スポーツ参加を断念している人達が 数多くおります。 アスリートレベルを目指す人達ばかりでなく、テニスを 経験したい・・
楽しみたいと・・ と思っている人達が数多くおりますが、参加する機会や環境がなければ・・ 楽しむことも、テニスの魅力とふれあうことも出来ません。 



本サイトでは 多くの温かな理解と協力支援で進んだ国内車椅子テニスの内容と歩みを紹介していますが、当時の近岡義一郎氏や藤倉五郎氏の時代以降は、車椅子テニスの
環境開発に取り組んだNPO団体の存在を テニス協会は無視し、競技者中心の車椅子テニス競技団体が生まれると その活動を 国内車椅子テニスの歴史としています。
しかし 前述の通り 国内に車椅子で楽しめる環境がない時代・・ 車椅子でテニスプレーする愛好者達も 競技団体の設立も 誕生することはありません。

テニス協会が正しい理解を避けている理由が分かりません。 当時 具体化は難しいと考え、開発の大きな負担を避けてきたことを 一般に知られたくないためでしょうか。
簡単ではなかった開発・普及の取り組み・・ ここに関わった多くのボランティアや企業、団体、財団などに代わって、国内の車椅子テニス環境が生まれ 発展への歴史は
NPO法人日本ハンディキャップテニス連盟の豊富な研究・実践資料による情報発信が 国内外の多くの人達の正しい理解に役立っていることと思います。

アスリートに対しては 常に厳しくフェアプレーの大切さを伝えるスポーツ関係者が 正しい理解に努めなければ・・ スポーツは その魅力と存在価値を失います。
今後に 無償の取り組みを長く継続する人達が 日本国内のテニス界に生まれるのか・・どうか・・ テニスを 真の万人スポーツに育むことが出来るのか・・ 心配です。


国内車椅子テニス環境が 開発されるまでの 主な事業内容

30年余にわたって取り組んだ車椅子テニスを含む新しいスポーツ環境づくりの開発と啓蒙普及の活動は、多くの人達が機会均等にテニス参加が出来るようにと また 誰でも
共に楽しめるスポーツ社会が生まれることを目的にして NPO事業を推進しました。 

車椅子の人達だけで競い合うテニス環境も必要ですが、他の障害のある人達と競い合い、障害のない人達(一般プレイヤー)と競い合うことの出来るテニス環境づくりに向けて、NPO団体として実践を通じて様々な研究開発を進めました。 この取り組みは 日本ハンディキャップテニス大会 等の事業の中で具体化させています。

このスポーツ環境づくりは、障害者や身障者という名称、区分にこだわらないテニススポーツの実現です。
しかし、こうした内容を不可能と考えている人達は、車椅子テニス環境の存在がなかった時代に戻る タイムカプセルを見つけることで 考え方が変わるかもしれません。

これまでのNPO事業活動は、各地多くのボランティア、企業、団体、財団等の各方面が温かな協力で支えて戴きましたが、テニスやスポーツ関連事業とは無縁であった人達や企業等からの支援が数多くありました。 その関心と理解が、既存の考え方を超えた社会効果の高いテニス環境を生み出してきました。
 テニスの楽しさと幅広く社会活用の出来る内容は、硬式テニスから高品質スポンジ使用の S・ST (スポンジ・スーパーテニス) に引き継がれています。


( ※※  1977年 当初は ルプトプラン連絡協議会の名称で 活動開始、1985年に 日本ハンディキャップテニス連盟を創設 2001年 内閣府の認証を受け NPO法人化 )

※参考  車椅子テニス開発の 関連プロジェクト

top