新たなテニス環境開発  Development of new tennis environment

    
   魅力あるテニスと心温かな人達との 出会い ・・
   テニスとの 出会いから ・・
NPO事業 40年余・・
新しいテニス競技や環境づくりと 競技世界の外に テニス内容を社会活用した歩みには 毎年 数日の休みしかありません。
しかし 休むこと少なくても このテニス環境づくりは 関わった関係者には 魅力豊かな取り組みでした。


知人の紹介で、初めて硬式テニスラケットを手にしたのは、35歳の若い? 時代から ・・
それまで愛好していた 他のスポーツと併行するカタチで テニス参加しました。


テニスは 始めてみたら・・ もっと早くに参加すべきスポーツだった!と 感じ 毎週の練習が 待ち遠しく感じていました。
1977年に始まった・・ 様々な分野の人達との出会い・・ この出会いから 学び、考えながらの 歩みが 始まりました・・


テニスの初参加した場所は 日本最初のテニススクールを開校した鵜原 謙造氏 (鵜原テニス研究所) が開設した横浜の会場でした。
元全日本チャンピオンの黒松和子さんも加わったスクールコーチは 心優しい人達ばかりで、初心者には居心地の良いテニス環境でした。

レッスンクラスメンバーには 老若男女いろいろな人達がおりました。 このときの出会いと、スクールが企画した夏のテニスキャンプに各地から参加した方々との交流・・ 温かな人達との接点が その後のハンディキャップテニス開発の活動につながりました。


テニススクールに参加していた人達の年代はいろいろです。 そうした人達と一緒のテニス練習は面白く・・ 夢中で打球練習を続けたら、指に血豆が出来て
ラケットが握れなくなりまはた。 しかし 休みたくなかったために、参加3日目からは ラケットを握る手を 右手から左手に変えてプレーしました。
この血豆の傷が回復した翌月からは 再び右手でラケットを握ってプレーしたところ、コーチからは 「真面目にやってください」 と注意されました。

当時はテニスブームの時代です。 1クラスの受講生は数多く、入会したばかりの初心者が 最初のレッスンから2回目までは右打ちだったことよりも 血豆で左打ちに切り替えて参加した打球スタイルが 強く残っていたためだったのかもしれません・・
レッスンを受ける本人にすれば、通常の右手で打球したことに対して 注意を受けたことに びっくりしましたが 懐かしい思い出のひとつです。
 
※ 40年前のラケットは 体力少ない人達には 負担の多いウッド製の重いラケットが大半でした。 血豆の出来た理由のひとつかもしれません。

当時、毎回のレッスンは楽しいものでしたが、それ以上に楽しみだったのは レッスン後の帰途に みんなで立ち寄る会食でした。
コートの隅に広がったボール集めする僅かな時間に、レッスン仲間達と交わす会話は・・
「今日はどこに行く! ○○の店に?」 「いや、あの店は ◇◇◇メーカーのビールだから 別の店に!」 などの内緒話の弾む不真面目なレッスン生が揃っていました。 しかし、そんな状況を知らずして コーチは丁寧に技術を教えてくれた時代です。


この当時の不真面目なレッスン仲間のひとりが、国内初の車椅子テニス環境づくりに一緒に取り組んだパートナーの 長谷川 登氏です。
大量に保存しています当時のNPO活動記録写真は、カメラマンでもある長谷川氏が撮影したものが数多くあります。


当時のふたりはテニスに夢中で、彼の奥様の出産前日まで 共にゲームを楽しんでいました。 帰宅後の彼のご家庭で 小さな嵐もあったようにも思います。 
しかし そのときに生まれたお嬢さんも、今は幸せな家庭を築いているので安心です。


楽しいテニス仲間との出会いが続く中・・コートの周辺から・・事故で足に大きな怪我をしたプレイヤーがテニス活動を断念したとの情報を聞きました。

その情報がきっかけとなり、下半身の運動機能を失っている人達が楽しめるテニス参加方法と環境づくりを生み出すために 車椅子を使用するテニスを考えました。 このテニス環境づくりの基礎研究に5年近くの取り組みを進め 車椅子テニス競技環境の具体化に向けて、日本テニス協会と日本プロテニス協会への提言と要望を進めたのは 国際障害者年の1981年でした。

しかし テニスは コート内を走り回る走力や瞬発力が 勝敗に結びつくとされる競技です・・ 足ニス・・との異名もつけられていました。
このため 車椅子を コート内に持ち込んでプレーすることの提言は、テニスの専門家には理解されにくい時代です。

国内の車椅子環境開発には 各テニス協会からの人材面、資金面の支援がないままに テニス経験少ないテニス愛好者達が 様々な課題を克服しながら活動を進めて 車椅子テニス環境づくりを具体化しています。



要望、提言を進めた新しいテニス環境づくりは、当時の人達には無理な願い事のひとつとして考えられているものでした。
しかし、力を尽くしてみなければ、分からないものと思います。 チャレンジすることなく、不可能と決めつけるのは スポーツに限らず、広い社会には多々ありますが  可能性を探るための発想方法はいろいろあると考えました。 私達が用いたのは・・ 様々な視点と大きな視野で考える 720度の発想転換方法です。

楽しい出会いを生み出したテニスですが・・ 新たなテニス内容を生み出す活動を進めた当事者にとって、楽しいことよりも苦しいことが続きました。
未体験のいろいろな出会いが数多くあったテニスの新世界づくり・・  このレポートの中でご紹介するのは、その世界の様々な出会いの一部です。



トマトを 缶ジュースに 出来る ・・ のであれば ・・

もう一度 新鮮な トマトに 戻せないか ・・
力を尽くしてみれば ・・
出来るかも ・・ !!
   720度の発想転換

カン・トマトネット
720度の発想転換は大きな視野で考える上で推奨する方法 ・・
不可能とされていた新たなテニス環境づくりも 発想転換が生み出したことのひとつ ・・


文中にご紹介して参ります各位は、NPO事業開始の前後から始まる数多くの企画を生み出した背景の中で、直接的に関係した方々です。
加えて、企画への助言や活動事業の取り組みに対して 精神的な支えを進めて戴いた方々は、テニスに無関係の方々が大半でした。

こうした方々のひとりでも欠けていれば、公開の新しい競技開発内容や様々な社会活用の展開は生まれませんでした。
30数年間の各種NPO事業に関わって戴きました方々は、国内各地で延べ数万に及びます。