ENHファィル 支援方法の工夫/支援活動への理解と協力


毎日のニュースを見ながら被災地に行くことが出来ないストレスと戦いながら、交通費と緊急支援物資の資金づくりに行動し、現地で必要とされる活動、緊急支援に役立つ物資は?・・ と考えを進めました。 少しでも早くにとの思いはあっても、力不足から資金づくりに多くの時間を要してしまいました。

当時、被災地で最も必要なものは食料、衣類などであることはニュース情報からも十分に分かっているものの、集められた寄付を含む資金で揃えられる数は限られていました。少しでも効果的に役立つものを判断しなければなりません。


この判断とは別に考えたもののひとつに、災害で家族を失った人達や大きな傷害を受けた人達の多い現地では、高齢者や病弱の人達を抱えた家族にとって、もし車椅子が近くにあったら、子供達や高齢の人達だけの力でも、家族を安全な場所や必要な場所に移動することが容易になると推測し、車椅子の確保に動きました。

各地の身体障害者療護施設などをテニス紹介で訪ねた折、一定の償却期間を過ぎた古い車椅子は新しいタイプに入れ替えるとき、廃棄されることを伺っていたことから、被災地で1〜2年だけでも使用できれば大いに役立つものと考え、その車椅子の提供を求めて各地域の関係施設やハンディキャップテニスの全国大会に参加された関係者などと連絡を進め、多くの方々の協力により30台余の車椅子が集まりました。

集まった車椅子は他の支援物資と共にワゴン車やバス、電車で被災の各地に届けました。
当初は簡単な整備で安全性を確かめ、避難所に指定されている場所に届けましたが、仮設住宅に多くの人達が移ったことから、現地近くの支援団体の協力を戴き、車椅子の補修を進めた上で届けました。

この活動にボランティア参加された人達の範囲は、地域、職業等で幅広く、教会の牧師さんも熱心に遠くから継続参加して被災地域の方々の支援に加わっています。

支援できる物資は少ないですが、被災者が必要とされる活動が多々あることを思い、大きな災害で被災した立場にあるとき、最も心配することは何かと考え 加えた内容は、被災した人達が親しい人達の安否確認をしたいこと、自分の無事を友人、知人に知らせたいと思う人達が数多くおられると考えました。

中でも、自分の力で動けない病弱の人達や高齢者、また視力や聴力を失っている人達は、周囲の人達の協力がなければ、他の人達との連絡も不可能であり、必要とする情報も得られ難いのではないかと心配しました。


 避難所に移った人達が、家族や友人,知人との安否連絡に使用できるようにと、便箋,封筒,切手、ハガキのセットを用意、支援物資のひとつに加えました。
便箋やボールペンは、聴力障がいの人達との筆談にも役立つことを願い、手渡すときにこの点もお願いしました。 
体育館や教室に避難している子供達のストレスを発散する方法のひとつに、周囲に危険の少ないスポンジテニス用具を寄贈し、イタズラ書きノート,クレヨン、折り紙なども用意しました。スポンジテニスは長く避難所で支援活動を継続していたボランティアのストレス解消にも役立ち、元気がまた出てきたと評価されたことも幸いでした

視力を失った人達のケアには現地のライトハウスなどの関係団体が中心となり、支援や介助が進んだとのことですが 聴力障害の人達は 外観からは音声の聞こえないことに周囲の人達が気づき難いために、情報が得られず、支援物資の入手に困難を極めたとの報告も受けました。

外見から障害が分かる人達とは別に、内臓障害や聴力障害の人達に対して 災害発生時の救援、支援の方法を国内すべての地域で工夫し、日頃から多くの人達の理解が得られるように、行政、民間の協力体制を確立させる必要があります。 

なお、災害や事故発生の際の誘導や危険を知らせる手話を少しでも広く普及させたいものですが、同時に手話の世界にも地域の違いがあって、関東地方の手話が関西では70%程度しか理解されなかったことを後日に聞き、共通の手話を工夫すべきことに向けて早く解決の道を見つける必要性を痛感しました。


  

当時、ENHの活動内容は、以上のような傷病者や高齢者の移動手段の確保と視力や聴力を失っている人達、病弱の人達などを中心とした安否連絡方法への協力、また、親しい人を失った人達,子供達の不安やショックからくるストレス軽減する必要性を考えながら活動しましたが、最初の現地入りに始まり、繰り返し訪ねた被災各地の状況は大変厳しい状況でした。 

1ケ月、2ケ月と過ぎていく中、被災の各地域では最小限の健康を維持する食事と寒さに耐えながら、高齢の人達が1,2枚のダンボールを敷いた上で毛布1枚の生活をしている姿はあまりにも過酷でした。 その様子を目にしながら、力及ばないことに空しさを感じながら、週に2,3日の活動を進めた後 神奈川に戻り、資金づくりの仕事に関わり 繰り返し 被災地域で各地から連絡のボランティアの人達と共に活動が続けました。

全壊していない学校施設はすべて避難場所として寒さから被災した人達を守りましたが、硬い床の上で寝具の少ない睡眠は厳しかったと思います。 1月の厳冬の川の中に、ライフラインのひとつ‘水’の供給を絶たれた人達が、少ない衣類の洗濯を行なう懸命な姿がありました。

資金的協力では、いろいろな人達からの温かな内容を預り、その方々の気持ちと品物を現地に届ける役割を果たせたことは本当にありがたいことでした。 また、車椅子の輸送に協力を戴いた方面やはじめ 各団体や関係者などの協力が得られたことで、いろいろな内容の取り組みが実現し、当初計画よりも長く継続することができました。

 ※支援活動内容の基本方針プリント
 ※ボランティア活動参加募集プリント
 ※活動参加者(3月末)
 ※お届けした支援内容(3月末)

ボランティアの募集については、NHKの放送協力をはじめ各種メディアによる報道などで、各地から多くの人達の温かな協力参加を得ることができました。 
しかし、活動本部としての力不足から、すべてのお問い合わせには対応が出来ず、現地活動に参加戴いたのは1995年3月末までに60名余、活動日数を掛けた延べ人数は200名余でした。 その後、当初計画の6ケ月間を過ぎても活動の必要性を痛感したことにより、1年、更に数年と、現地活動日数は次第に減少していきましたがENH活動は続きました。  最終の延べ参加者は270名余としています。
               
 
当時、ボランティアの人達に現地で、被災地域での活動内容や方法を説明できる場所を確保することは困難でした。 このとき、現地の支援活動を積極的に進めていたNGO団体関係者の紹介で、その後のENH活動をサポートして戴いた方との出会いがありました。 

この出会いがなければ、被災地での活動は力不足に大きく輪をかけたものになっていたものと思います。
放送などのお知らせで集まって戴いた人達に現地の支援活動方法を説明できる場所の提供を快く受け入れて戴き、支援物資の取り扱いから睡眠場所までを継続的に提供して下さいました。 このとき、人の出会いのありがたさを無信心な者ですが、勝手に神様に感謝したものでした。
 
このときの出会いを生んだきっかけは、当時の被災地が想像を超えた状況にあったことによります。 現地で泊まる場所のないことを承知で被災地に向かい、夜には再び夜行バスで帰宅する予定でしたが、三宮駅近くのバス乗り場は激しい渋滞でなかなか到着しないバスを待つ人達が数千人以上も並んでいました。 

このまま待っていても、帰途の電車、バスの発車時刻には間に合わないと悩んでいたとき、現地で同行して戴いたNGOスタッフから、「大阪まで行きましょう」と声をかけられ、数時間を待って乗車したバスと電車を乗り継ぎ、その後の活動拠点に使用させて戴くことになった学習塾の建物に到着したのは深夜1時前後でした。 

遅い時間にもかかわらず、快く迎えて戴き、現地で訪ねたNGO団体も利用しておりました部屋のひとつを、その後も長く提供戴きました。
この活動拠点は貴重で、この場所に毎週各地から参加したボランティアの人達に集まって戴き、活動内容を紹介した上で 車椅子を含む支援物資を手にして、神戸と周辺被災地域との間を行き来することができました。
                                                                     
          
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被災地から発信 最初のレポート

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